Kaleidoscope vol.5
 今回は、シネマテーク・フランセーズの創設者にして、ヌーヴェル・ヴァーグの精神的父と評され、多くの映画人から愛されたアンリ・ラングロワ氏です。
 川喜多かしこもラングロワ氏を心より敬愛しておりました。本財団の前身フィルム・ライブラリー協議会が発行しておりました、世界のフィルム・ライブラリー1977年号にかしこはラングロワ氏追悼文を寄せております。
 ラングロワ氏の人となり、二人の交流の一端がうかがえますので、少し長くなりますが全文を載せます。
 (同文章は佐藤忠男氏との共著「映画が世界を結ぶ」の中にも掲載されております。下が表紙です。)


アンリ・ラングロワのこと  川喜多かしこ

 ニューヨーク・タイムズ紙のヴィンセント・キャンビーがアンリ・ラングロワへの弔辞に「聖なる狂気の人」と呼びかけました。
 まったくラングロワは「聖なる狂気の人」でした。映画のことばかり考えているせいでしょう。旅行をすれば切符とパスポートを忘れ、財布はいつもからっぽ。どんな会議にもノートと鉛筆を持ったことなし。隣に坐った私のボールペンを使ってもあとはそのまま。こちらはいつも代りを補充して歩くといった調子です。
 メモは一切しないけれど、映画に関するすべての記録は頭の中にきちんと整理されて収まっています。
 フランス・シネマテークから日本のフィルム・ライブラリーに映画を借り出すため、私は幾度かパリのシネマテークにラングロワを訪ねました。彼は大きな机の前に陣取っています。大きな机の大部分は各国から来た手紙類に埋もれています。
 ラングロワは重い身体を持ち上げて私と挨拶を交します。ふたりの挨拶は互いの頬へのほほずりです。いつからこの挨拶を交すようになったのか覚えていませんが、たぶん1956年ユーゴスラヴィアのドボルボニックで開かれた国際フィルム・ライブラリー連盟の総会の時あたりからだったと思います。その時私と娘とは事務局長であったラングロワの特別の招待を受けて飛び入り参加をしたのでした。オブザーバーとしての突然の参加でしたのに私たちには大きなダブルベッドの美しい部屋が与えられました。
 呑気な私はすっかり好い気持ちになっていましたが後になってロッテ・アイズナーに聞いたところでは、その部屋はラングロワの部屋だったのを彼は私たちにゆずってくれ、自分は小さな相部屋に寝ていたのだそうです。
 ラングロワは晩年頻繁にアメリカに行くようになってから英語が達者になりましたが、その頃は片言でした。それでもフランス語の不自由な私のために一生けん命英語を話してくれました。もっとも彼の英語は非常に個性的なものでロッテに言わせるとアングレエ(「英語」の仏訳)ではなくてラングレエ(ラングロワ英語の意)だとのことです。「僕のティが」というのでお茶も出ていないのにと思うと「僕のネクタイ」という意味だったりして解釈にはなかなか習練を要しました―。
 さて、シネマテークの机の前でラングロワは私の希望のテーマを聞くとさっそく私のボールペンをひったくって手近にある誰かからの手紙を裏返して題名を書きつけます。製作年度、監督名、出演者名がずらりと5、60本並びます。それは一種の壮観でした。この人の頭の中はどういう構造になっているのかしらと私は、その間じっと彼の顔を見つめていたものでした。
「フィルム・ライブラリアンは“乞食”であれ。いつも頭を下げて人々の与えてくれるものを選択せずに受け取るのだ。下らぬものに見えた施しものが幾年、幾十年の後には、その光芒を現すのだ。我々は自分が保存すべきものを選ぶのだという傲慢さを捨てなければいけない。」
 これがラングロワの私たちフィルム・ライブラリアンに教えてくれた哲学でした。
 彼はある人々には雷帝のように恐れられていましたが私にはいつも優しく親切でした。
「マダム・カワキタは利己心を持たない珍しい人だ」とロッテに語っていたそうです。
 その言葉は私の生涯に与えられた最高の勲章と考えています。



 

写真 その1

1956年パリのフィルム・ライブラリー総会にて
左から川喜多かしこ、アンリ・ラングロワ氏、ロッテ・アイズナー氏




1966年来日したラングロワ氏と

鎌倉の大仏様の前で


五所平之助監督と歓談





1974年シネマテーク・フランセーズにおける
「現代日本映画20選」オープニング・パーティにて
左からナタリー・ドロン氏、アンリ・ラングロワ氏、三船敏郎氏、
アラン・ドロン氏、川喜多かしこ



 
シネマテーク・フランセーズにて

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