Special
今回のロカルノ映画祭に出席された小林政広監督に、
映画祭について振り返っていただきました。

小林政広監督(コンペティション部門出品作品「愛の予感」 *金豹賞受賞

「ロカルノ映画祭」のこと

映画祭の、特に、コンペに自作を出品するとなったら、平常心なんてものは、持ち得ないもので、出来れば映画祭にも出席せずに、やや離れたところで誰かに結果を聞いて、うまくいけば駆けつけて、駄目なら逃げ帰るというのが、監督と名のつく人の気持ちだろう。
―ご他聞にもれず、ボクも同様。
たいした回数ではないのだけれども、ボクも同じように逃げたいような、逃げられないような、そんな感情の中にいた。
駄目だったときは、審査委員長に食って掛かって、「理由を知らせろ!」と、叫びたいこともあった。今回のロカルノでは、ある監督が、審査委員長に本当に食って掛かっていた。
みんな、必死だ。
そして、命がけ。
ロカルノは、日本の芦ノ湖のようなところ。
つまり、アルプスを望む絶好のリゾート地なのだけれども、そこで展開されているのは、血みどろの闘いのほか、何もありはしない。
勝つか、負けるか…。
―それが、風光明媚なリゾート地で、お祭り騒ぎの喧騒の中、水面下に行われていく。
映画祭と言うのは、全てそう言うものだ。
情け容赦ない。
それでも信じていいのは、やはり審査員も作品の監督たちも、そして観客も、全てが映画を愛してやまない人たちだということだ。
作品に、優劣などありはしないという前提のなかで、作品を競うという理不尽極まりない行為を行う。
映画祭のコンペは、オリンピックを代表するスポーツ競技の金、銀、銅の奪い合いではない。
にもかかわらず、競う。
勝敗は、どこにあるのか―。
それは、どこにもないのだが、唯一、審査員たちだけがその責任を一手に引き受けなければならない。
「あんな駄作を!」とそしられるかも知れないし、「よくぞ、あの傑作を見出した!」と賞賛されるかも知れない。
しかし、その時の審査員たちは、そんな将来作品に与えられる評価を、見越しているわけではない。
自分たちの感性を信じるしかないのだ。

映画祭のコンペで孤独なのは、スポーツで言う「マラソンランナー」などの選手ではなく、作品を審査する「審査員たち」ではないだろうか?
そう言う意味で、映画祭と言うのは、作品の優劣もあるが、されより何より、審査員の優劣が、映画祭の質を左右するのだと思う。
審査発表の当日、昼、渡辺真起子さんとケーブルカー、ロープウェイ、リフトと乗り継いで、アルプスの(日本アルプスではなくて、本物の!)見渡せる山の頂上へ行った。
「駄目なら、ここから飛び降りるしかないな」
と、美しい山並みと、眼下に拡がる湖を眺め、思った。
たかが映画なんぞに命を賭けてどうすると、人は思うだろう。
でも、考えようによっては、どんな人間であっても、はたから見ればつまらないことにしのぎを削っているのだ。
『愛の予感』は、とてもリスキーな映画だ。そのことは、十分、理解しているつもりだ。だから、この作品に評価を下すというのもまた、特別リスキーな行為だ。
にも関わらず、この作品に、賞を与えてくれた審査員の皆さんの勇気に、ただただ、感謝するばかりだ。
小林政広



記者会見での小林監督(右)と、主演の渡辺真起子さん



      
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