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第12回目の今年(2011年)は、東日本大震災があった影響で、東北全体に自重ムードの流れる中で迎える形になってしまった。しかし、6日の夜に山形市中央公民館で行われた開会式では、NPO法人山形国際ドキュメンタリー映画祭、大久保義彦理事長による「東日本大震災で心配をかけたが、予定通り開催できたのが、大きな喜び。五感で東北の実情を感じてもらい、映画文化を大いに発信してほしい」との力強い挨拶で幕を開けた。その言葉通り、最高賞を決めるコンペ部門には101の国と地域から1078本の応募作から厳選された15本が、「アジア千波万波」には63の国と地域から705本の作品から24作品が選ばれ、様々な特集での上映を含めると約240もの作品が市内6会場10スクリーンで上映された。
今回の映画祭で大きな注目を集めたのは、東日本大震災復興支援プロジェクト「ともにある Cinema With Us」であった。3・11の未曾有の大震災という非常事態に、いかに映画を通じて向き合い、行動を起こせるかということについて考える企画で、震災関連の作品上映だけでなく、作家やNGO活動家によるシンポジウムも行われた。中でも注目を集めていたのが、「東北芸術工科大学3・11プロジェクト」だった。映像学科の学生が、同大学学長であり、映画監督でもある根岸吉太郎監督の指導のもと、それぞれ3分11秒の作品を制作したものである。作品の内容は、津波で家を流され土台しか残っていない友人宅前で撮影した作品、実家からの最後の仕送りのお米を恋人と分け合う作品など計9作品。それに同大学准教授であり現在「極道めし」が上映中の前田哲監督が撮影した作品も加えた合計10作品で構成されたオムニバス映画だった。震災の映画は、時期尚早ではないかという意見も一部にあった中での上映だったが、映画が終わり、挨拶にスクリーンの前に立った学生監督たちへは、満員の客席から大きな拍手が送られていた。
今回、映画祭初の試みとして、山形大学と東北芸術大学との共催で、テレビドキュメンタリーが特集された。特集は「公開講座・わたしのテレビジョン─青春編」と名付けられ、1953年の放送開始から間もない、テレビジョンの青春時代と呼べる60〜70年代に制作されたテレビドキュメンタリーが33本上映された。内容は、「ノンフィクション劇場」「素晴らしき世界旅行」で知られるプロデューサー牛山純一氏、テレビマンユニオンの創出者で知られる萩本晴彦氏、村木良彦氏、NHKドキュメンタリーで知られる工藤敏樹氏、RKB毎日放送の木村栄氏の四名が制作した作品を中心にしたものだった。テレビ番組という特性上、保存、公開、検証される機会が少ないなか、もう二度と観られないかもしれない作品の数々の上映は、テレビの意味と可能性を模索したものとして大変貴重な企画であったと思う。また、本企画の上映会場は今回から新たに加わった山形美術館で行われた。展示室には畳60帖を敷き詰め、部屋の真ん中には昔ながらのブラウン管テレビをかたどったスクリーンに映像を写し出し、当時のお茶の間のムードを巨大に再現していた。観客も、畳の上で寝転がって鑑賞したり、番組を見て懐かしいと喜んだりと、リラックスして上映を楽しんでいた。 ◆市民との交流◆ 映画祭の上映会場や周辺の店などでは、監督と観客、市民が交流する場所が数多く準備され、その多くは無料で解放されていた。
また、山形の夜は早く夜の8時には多くのお店が閉まってしまうという事情から、夜の10時になると、交流広場として映画祭公認の香味庵クラブが毎晩オープンしていた。世界各国からの監督や映画関係者、一般の参加者、市民、スタッフなどがお酒を酌み交わしながら、気軽に交流できるということで、多言語が飛び交いながら、深夜まで多くの人で賑わっていた。
◆感想◆ 今回、初めて山形ドキュメンタリー映画祭に参加して感じたのは、山形の観客のマナーの良さ、それに、訪れたゲストや上映作品に対する温かい態度だった。上映中の携帯電話の利用禁止についてのアナウンスもないのに、上映中、携帯が鳴るようなことは皆無であった。映画監督との質疑応答も、意地悪な質問などもなく、終止なごやかなものがほとんどだった。今回、映画祭参加者用のゲストパスを支給され、開催期間中はいつも首から下げて歩いていたのだが、パスを下げている人には、移動中の通りですれちがっても、市民ボランティアの人たちから笑顔で挨拶されたのも忘れがたい思い出だった。
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