公益財団法人川喜多記念映画文化財団

千代田区一番町18番地 川喜多メモリアルビル

パノラマ: コラム

                                          2015年10月8日掲載
リュミエール美術館とシネマテーク・フランセーズを訪ねて
                              岡田晋吉

 

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リュミエール美術館の建物
" リュミエール・ヴィラ "。
当時近隣の人々から
「シャトー・リュミエール」
と呼ばれていました。


私ども「川喜多記念映画文化財団」は鎌倉市の指定管理者として「鎌倉市川喜多映画記念館」の運営を任されています。今回、その「鎌倉市川喜多映画記念館」の参考にと、リヨンにある「リュミエール美術館」とパリの「シネマテーク・フランセーズ」を訪ねました。

「リュミエール美術館」はリヨンの市街地から少し離れた所にありましたが、かなり広い敷地の上に建てられたアール・デコ様式の素晴らしい建物でした。もともとは映画を発明したリュミエール兄弟の父親が1902年に建てたお屋敷で、リュミエール兄弟もここで育ち、シネマトグラフという動画撮影機もここで発明したということでした。 

リュミエール兄弟が発明した
シネマトグラフ。撮影と映写、
両方の機能を持っていました。

私どもの「記念館」が、財団創設者の川喜多かしこの居住していた土地に建てられているということと共通していると思いました。

「リュミエール美術館」で、二つのことを学びました。一つ目は同時代にあの有名なエジソンも動画撮影機を発明していたそうですが、映画の発祥の地としてここが認められているのは、リュミエール兄弟が自分たちの発明を人々に見せて、喜んでもらいたいと考えたことによるものと思います。実業家であった父親の血を受けて、社会に還元しようとしたのでしょう。兄弟は科学者と共に実務者であったのです。

オーギュスト・リュミエール(左)
(1862-1954)
ルイ・リュミエール(右)
(1864-1948)

もう一つは、映画の特性を生かし、自分たちの発明を医学の発展に尽くそうと努めていたことです。兄弟は運動する人物を映像化し、筋肉の動きを医学的に詳しく解明しました。ものの動きをそのまま記録する映画はかなり広い範囲で人々の幸せに貢献しているのです。映画は文化として、娯楽として価値を認められているとともに、私たちの生活を豊かにしてくれているのだと実感しました。

「リュミエール美術館」では、兄弟の会社のカメラマンが世界中を回って撮影した記録フィルムを各国別にまとめて上映していました。これは貴重なもので、日本の田舎を写した映像も公開されていました。当時の農村がどのようなものであったか分かり、非常に興味深いものでした。活字では読んでいましたが、実際の映像を見ますと、われわれが活字から想像していた世界とは全く違うものでした。


野口久光氏デザイン
「大人は判ってくれない」ポスター


「シネマテーク・フランセーズ」も大きなビル全体を使って活動していましたが、どちらかというと一般の人に映画の面白さ、楽しさを伝えることよりも、映画を勉強する若い人たちの学校といった趣を持ったものでした。私どもの記念館と同じく、映画に関する資料の展示と映画上映をしていましたが、一般来館者へのサービスは余り重要視していないようでした。その代り、玄関脇にある食堂では、若い人たちがいっぱいで、映画に関する議論に熱中していました。
ここで一つ嬉しかったのは、今年はトリュフォーを記念した催しが行われた為か、いたるところに野口久光氏の「大人は判ってくれない」の日本のポスターが飾られていることでした。トリュフォーは野口氏のこのポスターを気に入り、彼の他の映画の中に登場させていました。


さて、この二つの「映画ミュージアム」と私どもの「記念館」との比較ですが、確かに規模と資料と館員の多さはとてもかないませんが、小さいながらうちも結構頑張っていると自負しました。上記の二つの「映画ミュージアム」は、主に「映画人」のための施設ですが、私どもは「映画を見る人」に映画への興味をもってもらえるよう努める施設です。目的は違いますが、それぞれ、その目的にそって活動を続け、成功を収めていると思います。今後とも、三カ月毎にテーマを変え、見せ方を変えて、映画資料の展示とそれに伴う映画の上映を行い、記念館を訪れてくださる方に満足していただけるような記念館運営に努力していきたいと思います。



※「リュミエール美術館」に関する写真は同美術館のパンフレットより借用しました。

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