公益財団法人川喜多記念映画文化財団
千代田区一番町18番地 川喜多メモリアルビル
コラム
◇石原裕次郎讃歌 1 2012年5月28日掲載
岡田晋吉
2012年 7月5日(木)〜9月2日(日) 永遠のタフガイ 石原裕次郎 〜日本の映画を変えた男〜 |
詳しくは、 鎌倉市川喜多 映画記念館ホームページ |
裕次郎の命日にあたる 7月17日に上映される映画作品 |
7月16日(月・祝)〜18日(水) 「太平洋ひとりぼっち」 (1963年/96分) 監督:市川崑 原作:堀江謙一 共演:田中絹代、森雅之 浅岡ルリ子、大阪志郎 |
執筆者紹介 岡田晋吉 |
1935年、「鎌倉」生まれ、慶応義塾大学文学部仏文学科1957年卒業。 石原裕次郎とは慶応義塾大学の同期である。 1957年、日本テレビ放送網株式会社に入社。アメリカ製テレビ映画の吹き替え担当を経て、1964年から日本製テレビ映画のプロデューサーとなる。 作品は、アメリカ製テレビ映画:「世にも不思議な物語」「幌馬車隊」など、テレビ映画としては、「青春とはなんだ!」「飛び出せ青春」「太陽にほえろ!」「傷だらけの天使」「俺たちの旅」「俺たちの朝」「あぶない刑事」「いろはの“い”」「俺たちは天使だ!」「忠臣蔵」「白虎隊」「警視K」など多数。 竜雷太を初めとして、松田優作、中村雅俊、勝野洋などを育てた。 現在は「公益財団法人川喜多記念映画文化財団」の業務執行理事。 |
我々「太陽にほえろ!」のチームの面々は親愛を込めて、石原さんのことを“ボス”と呼ぶ。スタッフ・キャスト全員がボスを中心に14年間頑張ってこのシリーズを全うしたのだ。ボスがいなかったらこんなに長くシリーズを続けることは出来なかった。このシリーズ中、ボスは次から次と病魔に襲われ、風邪で40度の熱にうなされているとき、痛み止めの薬をぬりながら舌癌と闘っていたとき、動脈瘤で奇跡的に命を取り留めたとき、どんなに体調の優れないときでも、いつも笑顔でスタジオに現れた。番組を絶対に続けたいのだというボスの強い意志に励まされ、続けられたのだ。
ボスと初めて話をしたのは、ボスの撮影初日だった。通常、主演俳優とは、クランクインの前に何回も会って、番組の制作意図について話し合うものだが、このとき、ボスはまだ病気療養中で、われわれは石原プロのプロデューサーとしか話が出来なかった。そのため、われわれは緊張してボスの到着を待った。いつもぎりぎりにしか現れない萩原健一も珍しく1時間くらい前から来て、スタジオの中を落ち着かず歩き回っていた。ボスの最初の言葉は「俺、これしか出てないけどいいの」だった。考えてみると、日活時代、石原プロモーションの時代、ボスは映画の殆ど全シーンに出演している。何か物足りなかったのかもしれない。ボスの撮影日数も2話をまとめてセット1日、ロケ1日くらいしかない。「これは楽でいいや」とちょっといやみを言っていたが、本心「この仕事は半年続けば上々だ」くらいしか思っていなかったと思う。「この警察署の壁は動くんだな」といって、セットのべニア板でできた壁を押してスタッフの笑いを誘っていた。
ボスと話をしたのはこのときが初めてだったが、まだ高校生だった時代、ボスは逗子に住み、私は鎌倉に住んでいたので、よく横須賀線のなかで出会っていた。ボスはその当時から逗子・鎌倉の高校生の中での有名人だったので、向こうは私を知らなかっただろうが、私の方は知っていた。ボスはいつも取り巻きを連れ、我が物顔で車内を闊歩していたので、私は怖くてそっと隣の車両に逃げ延びた。この話を、親しくなってからボスにすると、「そうだよな、あの頃はよく喧嘩をした」と言って嬉しそうに笑っていた。松田優作が喧嘩をしてしまったときも、「いまの若い奴はかわいそうだ。俺たちの時は喧嘩しても勝てばだれにも文句をいわれなかったが、いまはそうはいかんぞ」とへんな説教をしてくれた。ボスと一緒に仕事をしようと思ったのは、そのときのボスの印象が頭の中にあったからだ。「太陽にほえろ!」の全作品の脚本を監修してくれた小川英氏も鎌倉の出身で、「太陽にほえろ!」はまさに逗子・鎌倉の風土が生んだ作品とも言える。……… (次のページ)
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