公益財団法人川喜多記念映画文化財団

千代田区一番町18番地 川喜多メモリアルビル

財団について

長政・かしこ・和子


◇川喜多長政

 明治36年4月30日東京に生まれる。東京府立四中を卒業後、大正10年中国に渡り北京大学に学んだ。更にドイツに留学、ヨーロッパの文化に接し、国際交流の重要性を実感した。そのため、帰国してすぐ昭和3年東洋と西洋の和合を願って「東和商事」を設立し、ヨーロッパ映画を日本に紹介する仕事を始めた。翌年、同社の社員だった竹内かしこと結婚、夫婦で力を合わせて数々の名作を輸入・配給した。作品としては、「自由を我等に」「巴里祭」「会議は踊る」「女だけの都」「望郷」「民族の祭典」など、映画史上不朽の名作が並ぶ。映画の輸入ばかりでなく、昭和12年にはドイツとの初めての合作映画「新しき土」を制作した。  昭和14年、日中戦争のさなかに上海に日中合弁の中華電影公司が設立されると、その最高責任者に就任。中国側スタッフに自由な映画制作を許し、軍部からの圧力に抵抗した。  戦後、昭和26年、社名を「東和映画」と変更し、外国映画の輸入を再開した。  また、この年、ヴェネチア映画祭に、黒澤明監督の「羅生門」を出品することに協力をした。「羅生門」はグランプリを獲得し、日本映画を世界に知らしめた。東和映画の作品としては、「天井桟敷の人々」「第三の男」「落ちた偶像」「禁じられた遊び」「居酒屋」「肉体の悪魔」「チャップリンの独裁者」等がある。  昭和50年、社名を東宝東和株式会社と改称、翌年社長の座を白洲春正氏に譲り、会長となったが、生涯、夫人と共に海外の映画祭に出席、国際的映画人として知られた。  昭和39年藍綬褒章、昭和48年勲二等瑞宝章、フランスからシュバリエ・ド・ラ・レジォン・ドヌール勲章、イタリアからコメンダトーレ勲章を受ける。  昭和56年5月24日、78歳で逝去。正四位に叙せられ、銀杯一組が賜与された。

 

◇川喜多かしこ

 明治41年3月21日に生まれ、横浜で育つ。旧姓・竹内。横浜フェリス女学院研究科卒業後、昭和4年、東和商事合資会社にタイピスト兼社長秘書として入社。同年秋、同社創立一周年記念日に社長の川喜多長政と結婚。しかし、長政が毎年ヨーロッパへ映画買い付けの旅に出掛けていたので、なかなか休暇が取れず、昭和7年の買い付け旅行へ同行するまで新婚旅行はお預けになっていた。その旅行中、かしこは「制服の処女」を見て気に入り、長政からのプレゼントとして買い付けてもらった。当時、この作品は、有名なスターの出演もなく、地味な作品だけに、まずお客は入らないだろうとの予想だったが、日本で大ヒットとなった。この出来事は、かしこの映画を見る目の確かさを証明した。そのため、翌年からは、ほとんど毎年、夫婦相携えてヨーロッパに出掛け、名作の選択に当たった。(作品名は長政欄参照)  戦時中は、長政の仕事の関係で、まだ幼い娘和子を連れて、上海、北京に暮らし、終戦に際しては、母娘二人で着の身着のままの引き揚げを体験した。
 昭和26年、外国映画の輸入が許可されると、直ちに東和映画株式会社が設立され、副社長の座につき、夫長政を助け、数々の名作を日本に紹介した。
 昭和35年、フランスの文化相アンドレ・マルローが来日し、日仏の古典映画の回顧展を行ないたいとの正式な申し入れがあった。これより5年前、シネマテーク・フランセーズの運営者であるアンリ・ラングロアから、お互い150本程度の作品を交換して、「日仏交換映画回顧展」を上映したいという要望があったのだが、当時の日本のライブラリー機関に収められていた長編映画は、わずか十数本にすぎなかっただけに、さすがのかしこもこの要望に応えることができなかった。しかし、文化相の直接の申し入れとあっては断る事が出来なかった。早速、かしこは、「フィルム・ライブラリー助成協議会」を組織し、映画業界全体の協力も得て、百本余の作品を集めることに成功した。そして、それ以後、日本映画の名作の収集・保存の仕事を私財を投げ打って積極的に始めた。かしこの仕事は、外国映画の輸入から、日本映画の海外普及へと向けられていったのである。
 フィルム・ライブラリー助成協議会は、先ず「助成」の二字が取れ、次いで昭和56年、長政の死後、故人の遺産もつぎ込み、本財団「川喜多記念映画文化財団」へと発展していった。
 かしこはまた、昭和44年に発足した「東京国立近代美術館フィルムセンター」の創設にも力を尽くし、昭和49年には、岩波ホールの高野悦子氏とともに「埋もれた名作を世に出す組織」エキプ・ド・シネマを設立した。
 ベルリン、カンヌ、ヴェネチアを初め、国際映画祭の審査員を務めること26回、マダム・カワキタの名前は世界中の映画人に親しまれている。
 昭和39年・文部省芸術選奨、昭和49年・紫綬褒章、昭和55年・勲三等瑞宝章、昭和56年・菊池寛賞、イタリアからカバリエレ勲章、フランスから文芸勲章を二回(オフィシエとコマンドール)と国家功労賞を受賞。
 平成5年7月27日、愛娘和子の死を病床で知ってから51日目、あとを追うようにこの世を去った。そして、生涯の功績に対し、正5位に叙せられた。
 まさに映画を愛しつづけた生涯であった。

 

◇川喜多和子

「紅樓夢」撮影中のセットで。
(1944年4月 中華電影職聯合公司撮影所)
左から出演女優3人と川喜多一家、卜萬蒼監督、岩崎昶氏

 昭和15年、東京・聖路加国際病院で川喜多長政、かしこの長女として生まれる。5才まで中国で過ごし、終戦後、母親と二人で苦労して引き揚げてきた。
 日本に戻り、鎌倉市御成小学校に入学したが、上海時代に始めたバレエ(舞踊)に熱中し、昭和30年中学校卒業と同時に、15才でイギリスに留学。初めはバレエの勉強をするつもりだったが、次第にヨーロッパ各国の文学、文化史を学んだ。このヨーロッパ滞在中、両親に連れられて数々の映画祭を体験したが、この間の経験が後の映画に対する優れた見識を生んだ。
 昭和32年日本に帰国した後は、34年、黒澤明監督の「悪い奴ほどよく眠る」の助監督を務め、みっちりと映画の勉強をした。当時は、映画監督になることを夢見ていた。しかし、翌35年、伊丹十三氏と電撃的に結婚、伊丹氏が監督する作品「ゴムデッポウ」の脚本を書き、助監督を務めると、それ以後は、映画の撮影現場を離れた。
 昭和41年、今度は映画の観客の立場に立ち、埋もれた映画を発掘・上映する自主団体シネクラブ研究会を結成した。このシネクラブは、日活の鈴木清順監督のフィルム公開を拒否すると、鈴木清順問題共闘会議と行動を共にして闘った。生まれて初めてデモにも参加した。
 昭和42年、生涯生活を共にする最愛の柴田駿氏の主宰するフランス映画社に入社、副社長として活躍。フランス映画社は、ルキノ・ビスコンティ監督の「家族の肖像」(東宝東和と共同)、フォルカー・シュレンドルフ監督の「ブリキの太鼓」、テオ・アンゲロプロス監督の「旅芸人の記録」、ホウ・シャオシェン監督の「悲城情市」など、映画史上に残る名作を続々と配給・公開した。また、“溝口、黒澤以後”の大島渚、柳町光男、小栗康平などの優れた日本の映画監督を世界に紹介した。そして、母かしこが病に倒れると、川喜多記念映画文化財団の仕事も引き受け、極めて多忙な日々を送ることになった。
 平成5年6月7日、53歳、くも膜下出血による呼吸不全、余りにも突然死だった。和子がこのときフランス映画社から救急車で運び込まれた病院は、奇しくも、和子が産声をあげた聖路加国際病院であった。
 今、和子は、両親とともに、三人仲良く鎌倉の英勝寺の裏山の墓地に眠る。